桜田門外の変

概要

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件(幕末編第21巻)。
■この記事は、Wikipediaの記事に加筆して作っています


経緯

安政5年(1858年)4月、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題と日米修好通商条約の締結という二つの課題に直面していた。

まず、病弱で世子が見込めない第13代将軍・徳川家定の後継をめぐって、南紀派(会津藩主・松平容保や高松藩主・松平頼胤ら、溜間詰の大名を中心とした一派)と一橋派(水戸藩・徳川斉昭や福井藩主・松平春嶽ら、大広間や大廊下の大名を中心とした一派)が争った将軍継嗣問題があった。数年前の嘉永6年(1853年)に起きていた黒船来航など対外危機を慮った一橋派は、英明で知られた当時21歳の徳川慶喜を推挙していたが、それに対し南紀派は、家定の従弟で当時12歳の紀州藩主・徳川慶福(家茂)を推し、結局慶福が養子と決められた。これは血縁を重視する慣例と現将軍・家定の内意に沿い、直弼を大老に推した南紀派を満足させたが、「時節柄、次期将軍は年長の人が望ましい」とした朝廷の意に反するものであった。

もう一つの懸案である修好通商条約の締結については、孝明天皇の勅許が得られず、攘夷派の反対論が勢いを増していた。直弼は基本的には無勅許条約調印に反対であったが、止むを得ない場合調印してよいかとの下田奉行・井上清直の問いに、その際は仕方がないと許可している。そこで、早期締結要求も強まる中、清直らは同年6月19日、勅許を得ないままに日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約の調印に踏み切った。これは、そもそも「鎖国」は朝廷とは無関係に始められたものであり、慣例上、条約締結に勅許は必ずしも必要ではなかったからである。

6月22日、諸大名に条約の締結が公表され、翌23日が御三卿による将軍への公式な面会日だったため一橋慶喜が登城し、条約締結を違勅として直弼を詰問した。さらに、翌24日に徳川斉昭をはじめ、斉昭の長男の水戸藩主・徳川慶篤、一橋派であった尾張藩主・徳川慶勝、越前藩主・松平春嶽が、規則外の不時登城を行って無勅許の条約締結を違勅と非難した.直弼は春嶽一人を身分が違うから、と別室に移して気勢を削ぎ、他の諸侯の詰問へは平身低頭を繰り返した。翌25日、慶福が将軍家定の養子と発表された。7月5日、将軍・家定の命として、登城した一橋派諸侯へ処分が下される。その直後、7月6日に家定が没し、慶福は第14代将軍となり家茂を名乗った。

ここに一橋派は江戸城内での活動を制限されたが、一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は、かねて藩士西郷隆盛を京都に遣わして内勅降下運動を行い、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、7月16日、島津斉彬は死去した。

勅許を得ない条約調印と斉昭・春嶽の排斥は、攘夷論の強かった公家たちに喧伝され、孝明天皇も幕府の行いへ憤慨した。孝明天皇は、同安政5年8月、幕政の刷新と大名の結束を説く『戊午の密勅』を水戸藩へ下した。また、幕府寄りとされた関白・九条尚忠の内覧を解いて朝政から遠ざけた(関白を辞めさせるには幕府の了解が必要とされる)。水戸藩は密勅の写しを雄藩に送って賛同を求めたが、幕府権威がいまだに強かった当時、各藩は関わりを恐れ相手にしなかった。しかし、朝廷が大名へ直接指令するという事態は、江戸幕府始まって以来前代未聞であったため、幕閣は大いに狼狽した。

直弼は、密勅が天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、反論者への徹底弾圧を決心した。まず、老中に再任させた間部詮勝を京都に送り、新たに京都所司代に任命した酒井忠義 (若狭国小浜藩主)にこれを補佐させた。間部は、着京後、態度不鮮明のまま「病臥」と称して参内を延期し、長野主膳や島田左近と連日協議した。これは、先年、入洛早々に参内して条約勅許の獲得に失敗した老中・堀田正睦の轍を踏まぬため、十分な準備を図って慎重に行動したものである。詮勝は、直弼の指示を受けて、一橋派らと関係を深めていた公卿の家人たちを捕縛断罪、また全国でも民間の志士を手始めに、幕政を批判する政治運動に関わった諸藩の藩士を捕らえていった。いわゆる安政の大獄である。一方で、孝明天皇は、いずれは鎖国に復帰するという条件のもとで、条約調印が切羽詰まった措置であったという直弼の弁明に一通りの理解を内々に示した。朝廷内も「公武一和」のため幕府の行いを認めたことで、幕府に批判的な一派は勢いを挫かれた。しかしこの時、朝廷との折衝に当たった詮勝は再攘夷の準備段階と説明したため、幕閣はこの内容を公表し辛くなった。他方、直弼による粛清対象は日を追うごとに増加し、皇族や公家、大臣、僧侶、藩主、幕臣、浪人、学者、名主、町人等々に及んでいき、最終的に安政の大獄へ連座した者は総勢100名以上にのぼった。

水戸では、密勅への対応をめぐって藩論は紛糾した。返納阻止派の藩士らは、密勅の下された安政5年の9月、街道の本陣のある小金宿 に結集し、武装した農民部隊まで加わった(第一次小金屯集)。この屯集が収まりを見せる頃、直弼による安政の大獄は本格的になり、密勅降下に関わった鵜飼吉左衛門父子らが拘禁された。やがて水戸藩家老・安島帯刀らも拘禁され、これに反発した水戸藩士民は、安政6年(1859年)5月、再び小金宿等に屯集した(第二次小金屯集)。一方、水戸藩士金子孫二郎は、高橋多一郎と計り関鉄之助、矢野長九郎、住谷寅之介らを西へ向かわせ、密勅の写しを諸藩へ回達させようとした。彼らは西南雄藩との連合を目指し、数か月間に渡り諸藩を遠遊した。また、弘道館内の鹿島神社神官・斎藤監物も神官3名をひそかに西国へ向かわせ、諸国神官職の者達へその写しを回覧させた。安政6年8月、水戸藩関係者は重い処分を受け、安島帯刀は切腹、水戸藩士・茅根伊予之介、同鵜飼吉左衛門は死罪、同鵜飼幸吉は獄門等になった。また、前水戸藩主・徳川斉昭は国許の水戸に永蟄居処分を受けた。さらに、幕政から『戊午の密勅』の朝廷への返還を求められ、主君の処分解除のためには、水戸藩は幕府へ恭順を示さねばならなくなった。しかし、断固返納反対の立場をとる藩士らの勢いも止まず、藩内の膠着状態となった。幕府は自ら返還を促す勅命の草案を作って天皇の同意を得る方針に転換し、安政6年12月、水戸藩主・慶篤に勅書返納の朝旨を伝達した。水戸藩庁では斉昭・慶篤間での協議により返納論が主流となりつつあったが、密勅返納阻止の運動は却って激化した。返納反対派は密かに密勅が運ばれることを警戒し、藩境の長岡で集まり水戸街道を封鎖して返納に抵抗した(長岡屯集)。安政7年(1860年)1月15日、幕閣は江戸城へ登った水戸藩主・徳川慶篤に対し、重ねて密勅の返納を催促、同年1月25日を期限とし、もし遅延したら違勅の罪として同藩を改易する可能性まで述べた。慶篤は返納に肯定的であったが、水戸藩内の返納反対論者の勢いは強く、幕府に猶予を願い出続けた。水戸で永蟄居中の斉昭は事態を危惧し、密勅を水戸城内の祖廟の元へ納めさせ、また更に水戸より六里(約23.56キロメートル)北で、歴代藩主の墓のある瑞龍山の廟へ移した。同年2月14日、返納容認論者の水戸藩士・久木直次郎が江戸で、夜半何者かに襲撃された。また2月18日、水戸城下の魂消橋で、返納反対派の藩士と容認派の藩屏が衝突、負傷者を出し、水戸城下は大騒ぎとなった。2月24日、水戸藩士・斎藤留次郎が水戸城・大広間で割腹自殺したため、返納は延期された。長岡屯集は、水戸藩上層部からの工作により懐柔されたことと、活動の主要人物の一部が直弼暗殺計画のため江戸へ移って地下に潜行したことにより解散した。

一方、以前より尊攘激派の水戸藩士・高橋多一郎や金子孫二郎らと、薩摩藩の在府組である有村次左衛門らは、双方の藩に仕えた日下部伊三治 (大獄により獄死)を介して結合を維持していた。この水戸藩士に薩摩藩士を加えた攘夷激派は、江戸での井伊大老への襲撃と同時期に、薩摩藩主・島津斉彬が率兵上京により天皇の勅書を得、それにより幕政を是正しようと図った。しかし、薩摩藩では斉彬の急死後に実権を握った島津久光が、江戸での大老襲撃を黙認しつつも、自藩の直接関与を抑制する方策をとった。久光の息子である藩主・島津茂久が、直書で志士の「精忠組」を賞賛するとともに、後日を期して脱藩突出を思いとどまるように説諭するという異例の対応で、攘夷激派を沈静化させた。ここに率兵上京の計画は頓挫した。しかし、薩摩藩から尊攘急進派の水戸藩士らへこの事は知らされなかった。

しかし、幕政是正の為には大老井伊直弼の排除が不可欠と考えた尊王攘夷急進派の水戸藩士達は、単独でも実行する方針を固め、直弼暗殺計画の準備を進めていた。

襲撃

処分

水戸藩側

彦根藩側

影響


  • 最終更新:2015-11-21 11:06:50

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード